是枝裕和監督『そして父になる』

 出生時に子どもを取り違えられた2組の家族を通して、家族とは、父とは何かを問いかける作品。勝ち組エリートの福山雅治尾野真千子、しがない電気屋リリーフランキー真木よう子が夫婦。双方の家族がわかりやすく類型的に設定されていて、対照的な生活が交互に描かれていく。どちらの家族も良い点と悪い点があり、どちらがいいとも言えない。

 いつもながら見事なのは、子どもの演技が自然なこと。説明調の台詞がないこと。抑制されていて、細部にも抜かりがない。冒頭のお受験のシーンで、早くも伏線が引かれていることにも驚く。「凧揚げ」の答えが嘘であることは、この親子の関係を暗示しているだろう。

 たとえば福山が父親の家を訪ねると、父である夏八木勲が隣家の下手なピアノの音に、「3年もやっているのに、やさしい花か」と苛立つシーンがある。帰宅すると、まさに息子が下手なピアノを弾いている。しばらく後のピアノ発表会で福山は上達しない息子に対し苛立つのだ。このように幾つかの場面が有機的に結びついて構成され、かたちを変えて反復される。「やさしい花」は、折り紙で作られた父の日の2本のバラに結ばれるだろう。

 ざっくり言ってしまうとこの映画は、ファザコンの男がその呪縛から逃れ父になっていく話だろう。物語の焦点は福山雅治に当てられ、その背景が徐々に明かされることで、エリート然として冷淡にも見えていた彼の弱さや迷い、葛藤などが詳らかになっていく。福山は独善的な父親のことを嫌っているようだが、しかし、彼の思考や価値観は父親のそれを受け継いでいるように見える。愛情薄く育ったゆえに認められたい気持ちが強く、大手建設会社のエリートとして勝ち続けてきたけれど、はじめて壁にぶつかり、人として父として成長していく……というのがおおよその流れであろう。看護師親子を見て継母への態度を反省するシーンには、そこまで用意するんだと緻密な構成に感心しました。いけすかないエリートのままでもよかったとも思うが、どうだろうか。いや、この映画にケチをつけるつもりは毛頭なくて、とても丁寧につくられた端正な映画で、わたしは誰にも感情移入することなく面白く観ました。傍からは「負けたことがない人間」に見えるが、実は強いコンプレックスを抱えているという役柄は福山雅治にぴったりだと思う。

 福山は父親に反感を持ちながら過去にとらわれている(無意識に愛情を求めている)「子」であった。「そして父になる」とは、子から親になっていくこと。手放した息子から愛されていることを知り、自分もまた愛していることに気づく。父もまた子の愛情によって育てられるということなのだろう。

高畑勲監督『かぐや姫の物語』

 今ごろだけれど、『かぐや姫の物語』の感想を。途中まで書いたところで忙しくなってそのままにしていました。
 水彩画のような淡い色使いと余白を生かした構図が新鮮で、ダイナミックにデフォルメされたシーンもあり、美しい映像表現に引き込まれました。高畑監督はかぐや姫の謎について論理的に解き明かした上で、あえて欠片をつくっていると思いました。しかし、制作スタッフは地獄だったのではないでしょうか。均一な線の中に色を塗り込む通常の手法に比べ、ラフに描かれた絵を多人数で再現するのは、はるかに時間と能力を使う。それが製作期間8年、製作費50億円という途方もない大作になったわけですが……。

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 日本最古の物語といわれる『竹取物語』を、日本アニメーション界の巨星、高畑勲が長編アニメーション映画化。「なぜ月から地上へとやって来たのか?」「なぜ月に帰らねばならないのか?」「かぐや姫が犯した罪と罰とは何なのか?」誰もが知るこの物語の不可解な部分と隠された謎を解き明かし、かぐや姫の真実を描こうとしたのが本作である。ストーリーは原作に忠実だが、原作にはなかった幼少期のエピソードとかぐや姫の心の揺れを描き、現代的な女の子に設定している。

 竹取りの翁が光る竹に赤ん坊を見つけるところから物語は始まり、一心に愛情を注いで育てる翁と媼の姿が描かれる。子どものいない老夫婦に与えられた小さな命の輝き。思いもよらぬ幸福。地井武男宮本信子の名演技により、その喜びが痛いほど伝わってくる。
 成長が早いことから村の子どもたちから“竹の子”と呼ばれ、野山を駆け回る幸福な幼少期が丹念に描かれる。それは後の悲劇を際立せる描写でもある。

 山里を離れ、都で高貴な姫としての教育を受けるようになった竹の子は、美しく成長しかぐや姫となる。評判を聞き5人の求婚者が現れるが、無理難題ではねつける。やがてその美貌は御門の知るところとなり求愛を受けるが、かぐや姫はこれも退け月へと帰っていく……。

 『竹取物語』といえばその優れた物語性から、SF、フェミニズム、社会風刺など様々に読み解かれてきた古典のスタンダードである。多様な解釈が可能だが、たとえばこの物語を親からの過剰な期待や要求に応えようとして壊れていく子どもの話としてみることもできるだろう。翁の行動はかぐや姫を思ってのことであり、高い教育を受けさせ貴族との結婚で不自由のない暮らしをさせたいと思うのは、親として当然の心理である。成金になって変わってしまった翁の姿も描かれるが、かぐや姫への愛情はゆるぎがなく、姫もそれが分かっているので期待を裏切ることができない。親という立場から押し付けられる価値観。愛から生まれる暴力。生きている実感が得られない子ども。じわじわと追いつめられていくエピソードが積み重なり、逃げ道がふさがれていく。

 これが宮崎駿の作品であったら、ヒロインは意志を貫き、閉塞的な状況を打ち破る姫として存在しただろう。あるいは捨丸は、困難な状況であってもかぐや姫を助け出す若者として存在し、決して妻子持ちとして描かれることはなかっただろう。だがこの映画では、ヒロイックな行為は禁止されている。
 印象的なのは、祝宴で酔客の心ない言葉を聞いたかぐや姫が激情にかられ都から山里へと疾走するシーンと、月への帰還が決まった後に捨丸と再会し空を飛ぶシーンである。いかにもジブリ映画らしい観るものを魅了するシーンは、どちらも「夢でした」と処理される。これは手厳しい批判である。高畑勲は、宮崎駿が描いてきた物語の解決法を否定しているのだ。

 キャッチコピーにもなった「姫の犯した罪と罰」とは、何か? 清浄な月の世界にあって不浄な人間界に憧れを持ったことが罪であり、その罰として地上に落とされた。御門からの求愛に追いつめられたかぐや姫は月に帰りたいと望む。それは罪を認めたこととなり、赦されたかぐや姫に月からの迎えがくる。というのが、かぐや姫にまつわる謎の解答であるとひとまずは言えるだろう。でもこの映画は、こうした解釈とは別に作品に隠されている罪と罰について考えることを促す。それは生きる意味を自らに問いかけることになる。このへんの組み立てというか誘導はさすが理論派の監督である。

 罰とは、かぐや姫に生きる喜びを与え、それを奪ったことではないのか。生の実感を失ったまま、無為に生きる日々。そして罪とは、地上で与えられた「生」を生き抜くこともせず手放してしまったことではないだろうか。幼少期を過ごした山里で自然とともにある暮らしこそが真実だと、他にもあったはずの生き方を知ろうとしない。彼女もまた1つの価値観に縛られている。それは少女が抱く大人になることへの恐れでもあっただろう。

 満月の夜に月からの使者がかぐや姫を迎えにくる。このとき、かぐや姫の絶望とは無関係に軽やかな音楽が鳴り響き無慈悲を強調する。高畑勲の冷徹が冴える演出である。仏画のように描かれたこの一団の中央にいるのは阿弥陀如来にみえた。月に帰るとは、死の暗喩なのだろう。そう考えるとすとんと胸に落ちるものがあった。かぐや姫の罪とは、死を選んだことでもある。

 かぐや姫は月に帰る際に、苦しかったはずの地上での暮らしを肯定する。しかし、話しの途中で羽衣を着せられ記憶を失ってしまう。かぐや姫はこう言いたかったのかもしれない。悲しみや苦しみがあるからこそ、生きる喜びがある。精一杯生きたかった、お迎えが来るその日まで。それは決して避けられないものなのだから。

宮崎駿監督『風立ちぬ』

 考えがまとまらないところもあるのですが、感じたことを書いてみます。

 予告編では「当時の若者たちは、そんな時代をどう生きたのか?」とテロップがあったのだけれど、この映画には「若者たち」という複眼的な視点はなく、ゼロ戦設計者である堀越二郎という個人を追った物語である。二郎は飛行機の美しさに魅入られた男で、彼の関心は夢のように美しい飛行機を造ることしかない。しかし、二郎が設計した飛行機は兵器となって多くの若者の命を奪うことになってしまう。理想と現実に引き裂かれた人間の葛藤が、軍国主義へと雪崩れこむ時代とともに描かれるのではないか? と勝手に予想していたのだが、違っていた。ひたすら夢を追いかける天才航空機技師に宮崎駿が自らのエゴを仮託して描いた私小説的な映画だった。飛行機はアニメーションで、設計事務所スタジオジブリなのだろう。

 二郎は世事には関心がなく、地震が起きても、戦争になっても、お金持ちでエリートなので飛行機の設計に没頭することができる。二郎は昭和恐慌で銀行に殺到する人々を車の中から眺める。このシーンは堀越二郎という人間のスタンスを如実に表している。それは列車の窓から山や緑を眺めるのと何ら変わらないのである。

 「芸術家とはそのようなものだ」という宮崎監督の声が聞こえるようだ。彼にとって飛行機以外は流れゆく景色のようなもの。何を考えているのかわからない二郎の声に、抑揚に乏しい庵野秀明は適役だったと思う。心ない感じがはまっていると思った。

 全般的にこの映画は説明を省いていて、「ここはどこなのか」「この人はなぜここにいるのか」「取り付け金具はそんなに重要なのか」「こんな芋虫のような治療法があるのか」など脳内補完しつつ観たけれど、疑問が残る描写もあった。二郎は特別高等警察に目を付けられている設定だけれど、特高は左翼や反戦思想を持つ人間をマークしていたのではなかったか。ノンポリなうえに、日本海軍からの要請で戦闘機を設計している二郎に狙いをつけるとは考えづらい。おそらくは黒川宅の離れに住まうきっかけ、黒川夫妻に仲人になってもらうための方便なのではないか。その結婚についても、当時は家同士の結びつきが基本となって考えられていた時代。名門であればこそ、簡単に結婚できるはずもないのである。

 二郎が内面を明かさない代わりに、周りの人間がそれを補ってくれる。親の帰りを待つ幼い姉弟にパンを与えようとして拒否されると、同僚の本庄に「それは偽善だ」と言わせる。菜穂子との結婚を望めば、上司の黒川が「エゴではないか」と釘を刺す。先回りしてエクスキューズする必要はあったのだろうか。多くの場面で説明を排しているのだから、偽善もエゴも飲み込んでしまってもよかったのではないか。

 それにしても二郎と菜穂子の話は時代がかったメロドラマで、「白馬の王子さま」という言葉が出てきたときは、いたたまれない気持ちになった。わたしはブルジョアの菜穂子よりも使用人のお絹のほうに感情移入してしまい、どうせメロドラマにするのなら、二郎とお絹の身分違いの恋のほうが見たいと思ったりもした。
 しかしそれでは、宮崎アニメのヒロインには不適格である。母親枠はあっても熟女枠はないのである。菜穂子は、聡明で美しく、自らの意思で行動するいつものヒロイン像だ。宮崎監督は美少女を描いても結局は母性に回収してしまうのだけれど、菜穂子が病身であることは、母親の姿が投影されているのかもしれない。婚礼で白い花を髪飾りにした菜穂子の美しさに、「本物の美少女を見せてやろう」という巨匠の本気を見た思いだ。

 菜穂子は風と共にある。二郎にとって菜穂子はミューズのような存在なのだろうか? 菜穂子が風を起こし、二郎は作品を完成させることができた。だが、菜穂子を失ってしまったことで、彼の創造的人生も失われてしまう。(二郎と菜穂子の関係についてはもっと考える事が必要だと思う)

 幾度となく二郎の見る夢が描かれるが、ラストシーンも夢の中である。ゼロ戦の残骸が散らばっている。だが、機体が撃ち落されるシーンも、機体もろとも突っ込んでいくパイロットも、それ以前に戦禍で逃げまどう人々も描かれない。菜穂子もそうだが、直接的に死を描くことを避けている。本作の評価が分かれるとすれば、それはおそらくここであろう。
 もちろん宮崎監督は分かっていて描こうとはしなかった。それはこの映画で描きたいことではないからだ。正直にエゴを通した。この映画全体が宮崎駿の夢なのだから。

 それでも違和感を覚えるのは、美しい夢を見るのは、過酷な現実に目を背けずに踏ん張り続ける人たちであって欲しいと思っているからかもしれない。

 カプローニは言う、「創造的人生の持ち時間は10年だ」と。この創造的人生10年説というのもよく分からないのですが、これはどこからきているのだろう。アニメーションの世界に入って50年、この道を究めた宮崎監督の実感なのだろうか(だとしたら残りの40年って何?)。時間には限りがある(夢はいずれ覚めるのだから見続けることはできない)ことを示す象徴的な数字なのか。でもこの映画が、創造する人間の逃れがたい業を描いているのなら、それは死ぬまで続くものではないのだろうか。あるいはこれは、引退を決めた宮崎監督の決別の言葉なのだろうか。俺の10年は終わったということなのか。
 いずれにしても二郎の創造的人生は終わってしまった。美しい飛行機を作ることがすべてだった人間にとって、罰にも近い結末である。それとも罰を与えることで救っているのだろうか。夢が終わった後も、風は吹いている。すべてを失っても、それでも「生きて」いかなければならない。ラストシーンで描いたのは、希望でも絶望でもない、孤独な荒野だった。

もやもや

 『風立ちぬ』観ました。できるだけ情報をカットして観たのですが、それでも「堀越二郎=宮崎駿」「庵野秀明が棒」という声は耳に入っていました。
 映画を観ながら「駿はこんなにブルジョア趣味だったのか……」と、庶民なわたしは驚きました。なんだろう、すごくモヤモヤしている。今そのモヤモヤが何なのか考えています。

美しいひと 33年目の向田邦子 

 『NHKクローズアップ現代 33年目の向田邦子』を見る。何度目かの再ブームを迎えているらしい。著作は版を重ね、続々と関連本も発売。生前の向田邦子を知らない若い世代にファンが増えているという。
 それはわかるような気がする。美貌と才能。作品だけでなく生き方や人生観に共感することも多いのだろう。

 向田作品の魅力は、「反復」と「切断」にあるのではないだろうか。ありふれた日常、繰り返される毎日、永遠に続くと思われた日々が、ある出来事でふいに切断される。恐ろしいほどの切れ味と、その切り口の鮮やかさ。代わり映えのしなかった毎日が反転し、かけがえのない日々として照射される。

 編集者、ルポライター構成作家、脚本家、小説家と仕事の幅を広げ次々と作品を手がけたが、野心などというむきだしの言葉で語られることのない品性と含羞があった。エッセイでもあけすけに本心を明かすようなことはなかった。心の奥底にひそむものは作品へと昇華させたのだろう。


【追記】
放送した内容すべて下記NHKサイトでテキストで読むことができるようです。
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3396.html#marugotocheck

映画のための流儀

 『プロフェッショナル仕事の流儀 宮崎駿スペシャル“風立ちぬ”1000日の記録』の放送だった。見たかったけれど、まだ『風立ちぬ』を観ていないので我慢した(でも録画はしておいた)。『風立ちぬ』についてのレビューがあっても読まないようにしている。映画はできるだけまっさらな状態で観たいと思う。

反省した日

 横浜シネマ・ジャック&ベティにて、岡村淳監督の『リオ フクシマ』を観に行きました。自分の在り方を問われるような作品でした。やはり映画は恐ろしい、というか、カメラは恐ろしい!(ホラーではないです)
 岡村さん初の著書、『忘れられない日本人移民 ブラジルへ渡った記録映像作家の旅』(港の人)の販売とサイン会も開かれました。手に取ったときの手ざわりや厚み、開いたときの柔らかさ、指に残る紙の質感など、本への愛とこだわりが感じられます。執筆、編集にも時間をかけて丁寧に作られたそうで、自分の突貫工事のような仕事ぶりを思い返すと、今後のことを真剣に考える時期なのではないかと思いました。
 岡村さんからは、「ちゃんとブログを続けなさい」と諭され、いろいろ反省した一日でした。

忘れられない日本人移民 ブラジルへ渡った記録映像作家の旅

忘れられない日本人移民 ブラジルへ渡った記録映像作家の旅